<九十四の葉>
楽器の話(十九)

 毎日がお祭り気分のような夏休みが終わった。2学期に入るとCHILDには4本のライブが待ち受けていた。学園祭だ。ぼくとテツロウが通う成東高校の文化祭が9日(土曜日)と10日(日曜日)に、そして、その翌週の15日(金曜日・敬老の日)と16日(土曜日)にはリッカとキンジが通う匝瑳高校で文化祭が行われることになっていた。成東高校では9日、10日の両日に渡ってメイン会場である体育館のステージに出演できることになっただけでなく、更にうれしいことに2日目の10日には視聴覚室での単独ライブも許されていた。匝瑳高校での演奏は15日のみだったが、出演できるだけでも御の字だった。

 成東高校も匝瑳高校も体育館のメインステージへの出演は同校の生徒のみという決まりがあった。他校の生徒が出演するには許可が必要ということになる。ぼくたち4人はその問題をクリアするのに必死だった。ぼくとテツロウは許可を得るためにあらゆる手を尽くし、学年主任の先生や文化祭担当の先生にバンドの事情を正直に説明した。すると、普段は厳しい先生方が思いがけず大きな理解を示してくれた。ぼくたちをよく観察し、心の状態をしっかり汲み取ってくれていたのだと思う。どんなに小さな問題であっても、先生の判断が生徒の一生を左右するということもありうる。ぼくたちにとって、この時の先生方の判断はまさに英断だった。今でも感謝せずにはいられない。高校の文化祭はバンドを組んでいる高校生にとっては、年に一度の晴れ舞台だ。体育館のステージで演奏した時の興奮やときめきが、その後のぼくのバンド人生にどれだけ影響を及ぼしたか…。簡単には語れない。だが、選択が正しかったのかそうでなかったのかは別として、自分が選んだ道を一歩前に踏み出そうとした時に、あの時の得体の知れぬ感動がそっと背中を押してくれたのは事実だ。匝瑳高校では規則がより厳しかったが、リッカとキンジが奔走し、多くの友人たちが手助けをしてくれたおかげで、どうにか15日の体育館のステージへの出演が認められた。指導は厳しかったが、どんなことでも真剣に受け止めてくれた先生たちの顔は、今でもはっきりと思い浮かべることができる。担任の先生やぼくを熱心にバレー部に誘ってくれたG組の熱血先生は3年間、欠かさずにCHILDのステージを見てくれた。

 手帳には9月1日からは毎日のように練習したと書いてある。3日の晩からは、父親に協力してもらってチラシを作り始めた。今で言うフライヤーだ。お札(さつ)の半分ぐらいの大きさのもので、何月何日何時…どこどこの教室でやります、みたいなことを書いてガリ版で刷った。ハサミで切るのは弟と妹の役目だった。この日のうちに390枚、次の日に321枚、そのまた次の日には213枚、計924枚のチラシを作った。枚数をきちっと書き留めているところが微笑ましい。これを読んで、せめてもう1週間早く作ればよかったものをと思ったが、よく考えると夏休み中では配りようがない。このチラシは近辺の他校に通う友達や先輩、後輩に配ってもらったり、文化祭当日に校内で配ったりした。5日の練習には、テツロウがグヤトーンの新品のアンプをバイクに積んできた。100ワットのコンポアンプだ。いい音が流れ出た。

 1本目のステージは9日、土曜日の午後1時半から2時10分までの40分だった。文化祭でも土曜日の学校には校外の人はほとんどいない。勝負は次の日、日曜日だ。この日のライブは楽器の音量が大きすぎて、客席では歌がほとんど聞こえなかったらしい。手帳にも大きく「反省!!」と書かれている。ライブが終わると、ぼくたちは午後3時15分成東発の列車に乗って銚子に向かった。視聴覚室でライブをするのに必要なPA機材を借りに行ったのだ。当時は千葉や銚子まで出かけなければPA機材をレンタルしてくれるような楽器店はなかった。車の免許は持っていないし、車を出してくれるような知り合いもいなかったから列車で運ぶしかない。一行はぼくとリッカ、キンジ、それにふたりの友達が加わり総勢5名だ。PA機材はかなり重い。3人では持てるはずがなく、仲のいい友達が手伝ってくれたのだ。列車で銚子に行くには1時間以上かかるが、高校生にとっては楽しい旅以外の何ものでもなかっただろう。銚子駅から目的地である楽器店JOJOまでの距離はどのくらいあったのだろう。歩いたのだろうか、バスを使ったのだろうか。今ではPA機材を手で運ぶなんて考えられないが、当時はそれが当たり前だった。みんなでおっちらこっちら歩いて運んだのだ。銚子ではラーメンとたこ焼きを食べた。これもかけがえのない思い出となった。

 10日は朝6時に起きた。友達に手伝ってもらってリッカの家に置いてあったPA機材を駅まで運ぶとみんなで学校に向かった。成東駅から学校まではかなりの距離があるからバスを使ったのだと思う。この日の体育館でのステージと午後2時からの視聴覚室でのライブは大成功に終わった。ライブの詳細は記録していなかったので正確な内容は思い出せないが、気持ちのいいステージだったことは間違いない。おそらく興奮のままに書いたのだろう。手帳には「最高に良い1日だった」「お客さんが乗ってくれた」「握手責めがうれしかった」等の言葉が書き連ねられている。

 ライブが終わると後片付けだ。この日もPA機材を返しに銚子へと向かった。誰と行ったのかはよく覚えていないが、リッカとキンジ、そして、この日も仲間たちが手伝ってくれたに違いない。総武本線は今でも1時間に1本ぐらいしかないから、待ち時間を含めると往復最低3時間はかかる。ライブを2本こなした後の話だ。本当に大変だったろうなと思うが、それでもそんなことすべてを忘れてしまうほどの喜びをライブは生み出すのだ。ぼくたちはその喜びを知ってしまった。

 11日の月曜日は代休、11時まで寝ていた。どんなに疲れても17歳は一晩で回復してしまう。昼過ぎから練習場に行って友達と話をして、夕方にはリッカの家に行った。リッカの家では、この日も愛情のこもったご飯をご馳走になった。12日は「思いがけず土曜日課だった」とあり、13日も「2時間つぶれてよかった」とある。高校生には何とも都合のいい毎日だ。

 ロックイベントROCK ME BABYや成東高校文化祭でのCHILDのステージの噂はあっという間に広がり、バンド名が少しずつ知られるようになった。横芝駅や成東駅で他校の生徒に声をかけられたり、誰それの友達ですけど、という知らない女学生から電話がかかってきたりするようになった。14日は学校が終わってから軽めの練習、15日のライブに備えた。15日は晴天だった。9時7分横芝発の列車で八日市場に向かった。この日も素晴らしい雰囲気の中、CHILDは最高のステージを展開した。1978年9月、4本のライブを終えたCHILDはメンバー全員が何かしらの手応えを掴んでいた。


 匝瑳高校で文化祭ライブがあった日の手帳の欄にうれしい記述を見つけた。最後に小さな文字で「おばあちゃんにひざ掛けをプレゼント」と書かれている。おばあちゃんの笑顔を思い出した。(つづく)


(C)2008 SHINICHI ICHIKAWA
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