<九十八の葉>
ノリオの日常
オラ!(一)

 「ノリオ、部長が呼んでるぞ」背中越しにヨウヘイの弾んだ声が響いた。麗らかな春の昼下がりのことだ。年度末のせいか社内はちょっとだけ慌しい。ノリオは昼休み後に始めたばかりの仕事の手を休めてゆっくりと振り返った。ヨウヘイはいたずらっぽい笑みを浮かべている。『オレ、何かやらかしたかな…』ノリオは眉を曇らせそうになったが、そんな気持ちを悟られるのも癪だったのですぐに向き直った。ヨウヘイのうれしそうな声を簡単に“吉”と受け取ってしまうほどお調子者ではない。ノリオは瞬時に、ここ数日の、いや、数週間前からの仕事の内容を頭に巡らせてみた。だが、どの角度から検証してみても、叱責の種のようなものは見つからない。まったく見当がつかないのだ。ノリオの仕事は順調という言葉などではまったく物足りないほどの充実振りを示していた。ここ一ヶ月は絶好調が続き、バイオリズムは上へ上へと上昇を重ねているはずだった。

 『それとも、何かいい話なのかな…』『褒められるのかもしれない…』ノリオは首をもたげようとする期待の芽をグッと押さえながらも、ひそかにバラ色の場面を想像してみた。だが、頭の中に降り注いできたのは手塚治虫のヒョウタンツギの大群だけだ。『こんな時に、いい話があった例(ためし)がない』『突然訪れる大スランプの予兆なのかもしれない』『好事魔多しとはこのことか…』ノリオは喜びの火種を心のどこかに残しつつも自嘲気味に呟いた。目の前にある事実は、“部長がノリオを呼んでいる”ということだけだった。ノリオの中にある必要以上のもどかしさはどこから来ているのだろうか。

 経験は感情に大きな影響を与えている。ある場面に遭遇すると、脳は過去の経験から似たような状況を選び出し、心の傷やダメージを最小限に抑えようとしたり、歓喜や愉悦の快感を思い起こさせたりする。あまりにも悲しいこと、ショッキングなことが起こると、人の心は壊れてしまう。心を守るために、脳は自己防衛としてのリミッター機能を働かせ、ピークを超えないようにコントロールしようとするのだが、経験がそれを助けることもある。(うれしいことがあった時の感情にも超えてはならないピークはあるようだ。歓喜の余り死んでしまったという話を耳にしたことがある。)特に、子供にとっての悲劇は心を壊さないまでも大きな傷跡を残すことがある。トラウマと呼ばれるものだ。

 ノリオが思い出したのは小学校1年生の時に迎えた元旦の出来事だ。大晦日、紅白歌合戦の結果を見るまでは寝ないぞ、と眠い目を擦りながら起きていたノリオは9時を過ぎるとあっという間に寝てしまった。そして、朝5時にトイレに行きたくて目が覚めた。小用を足し、部屋へと戻ろうとした時だった。ノリオのお腹がグウとなった。年越し蕎麦を食べたのが大晦日の夕方6時ごろだったから無理はない。当然お腹は減っている。それでも、ノリオの頭に何かを食べようという発想はさらさらなかった。ボーッとしながらも、喉も渇いたと水を飲みに台所へ向かった。水道の蛇口をひねり冷たい地下水をコップで2杯ググッと飲み干すと、寝床に戻ろうと振り返った。その瞬間、ノリオはテーブルの上にあった重箱に気付いた。おせち料理はあまり好きではなかったが、一応蓋を開け覗いてみると、箱の中でノリオの好物である栗きんとんが、窓の隙間から差し込むほのかな光に反射して黄金色に輝いていた。

 静まり返った台所には誰もいない。夜更かしをしたに違いない家族はまだまだ眠りの中だ。一個ならいいだろう、と手を出したのが失敗だった。結局、ノリオは餡の部分だけを残して、すべての栗を胃袋の中に収めてしまった。起きているとはいえ朝5時だ、子供にとっては半分寝ているようなものだ。無意識のうちに自分だけの理屈をこしらえ、勝手に納得してしまった。それでも罪悪感は残っていたのか食べ終わると餡を不自然に盛り上げ、指に付いた餡は舐めつくしてからパジャマで拭いた。ノリオは再び眠りについた。

 3時間後、ノリオは姉のクミコに起こされた。「ノリオ、お母さんが呼んでるよ!」クミコはうれしそうに言った。姉の笑顔を見たノリオはうれしさで一杯になった。『やった!お年玉だ』たくさんのお金で膨れ上がったお年玉袋が頭の中一杯に広がった。ノリオは数日前からお年玉に大きな期待をよせていた。保育園時代は小学生の姉とは金額に大きな差をつけられていたから、1年生になった今、大幅アップは間違いなしと確信していたのだ。「は〜〜〜い!」これ以上ないというほどの明るい声で返事をしたノリオは全速力で台所へと走った。「なあに?お母さん!」と人懐っこい顔を母に向けた。 「ノリオ、あんたこれ食べたでしょ!!」指を差していたのはノリオが明け方に食べつくしてしまった栗きんとんだった。ノリオは一瞬パニックに襲われた。『栗きんとん?』『ぼく食べたっけ?』『お年玉じゃないの?』

 母、マサヨは怒っていた。「お父さんだって、お母さんだって、クミコだってみんな栗きんとんが大好きなのよ!」「あなたは人のことなんてどうでもいいの?」「今年はお年玉なしです!」天国から地獄とはこのことだった。同じ叱られるでも予測していたのなら少しはショックを和らげることができたかもしれない。だが、お年玉をもらえると思って天にも昇る気持ちで飛んできたノリオにとって、マサヨの怒りはあまりに大きな衝撃だった。ノリオは泣きに泣いた。泣いた後もまた泣いた。その号泣振りにはマサヨも閉口し、結局は大幅アップのお年玉をくれたのだが、ノリオはしばらく立ち直ることができなかった。このような出来事は人格形成にさえ影響を及ぼすことがある。ノリオにはかなり慎重なところがあるのだが、それが生来持っているものなのか、このことがあってから持つようになったものなのかは分からない。

 会社の窓から見える桜は蕾をいっぱいに膨らませていた。今年の開花は早そうだ。ノリオは書類をサッとまとめると飲みかけのコーヒーを一気に仰いだ。『何を言われようと動じずにいよう』そう自分に言い聞かせると覚悟を決めて席を立った。ノリオの中ではヨウヘイの笑顔とあの時のクミコの笑顔が重なっていた。(つづく)


(C)2008 SHINICHI ICHIKAWA
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